スキンヘッドとスリムな体型、練習に取り組むひたむきな姿勢が、どこか修行僧を思わせると、KONAチャレ仲間のあいだで評判の木家勝之さん。今年、フレンドからレギュラーメンバーに昇格を果たした。阪神淡路大震災の復興支援ボランティアやオーストラリア、カナダでの生活、小学校の教員から鍼灸師・トレーナーへの転身など、波乱に富んだ人生を送りながら、KONA(アイアンマン世界選手権) へのチャレンジを続ける木家さんに、生き方の根底にあるものと、前に進み続ける原動力について話を聞いた。
プロフィール
きや・かつゆき(写真右)
1973年千葉県生まれ。中学・高校時代は陸上部。大学は小学校の教員を目指して教育学部に進んだ。在学中に阪神淡路大震災の復興支援ボランティアを経験。教師になる前に、自然学校での指導員、オーストラリア、カナダのワーキングホリデイなどで人生経験を積み、帰国後横浜市の小学校で教員に。教員時代にトライアスロンを始め、成績は伸びたがコナになかなか手が届かず、教師を辞めて2年間トライアスロンに専念しようとした矢先に大きなケガを経験。これがきっかけで鍼灸師に転職し、管理栄養士の奥さんに支えられながらコナをめざし続けている。
Interviewer
山口一真(写真左)
1982年東京生まれ。小学校から大学までバスケットボールに打ち込む。社会人になってスポーツから遠ざかり、一時期体重が100kgを超えたが、選手時代のノウハウを活かした食事と運動により1年間で40kgの減量に成功。2018年メイクスのKONAチャレ担当になったのを機にスイム・バイク・ランのトレーニングを始め、木更津トライアスロンでレースデビュー。秋にはアイアンマン台湾を完走した。以後も毎年アイアンマンや宮古島などに出場を続けている。
肥満児から一転、学内マラソン優勝で
走ることの楽しさに目覚める
山口木家さんはいつ頃からスポーツに目覚めたんですか?
木家今でもそうですけど、元々運動は苦手なんです。小学校5年までは肥満児で、あだ名は「白豚」(笑)。よくいじめられてました。
山口それがいつからスリムになったんですか?
木家学校のまわりを走るマラソン大会があって、毎年ビリだったんですけど、ある日スポーツ万能で人気者のY君という子が突然家にやってきて、「マラソンで1位になりたくないか?」と言うんです。いやだと言ったんですが、毎日来て無理矢理外に連れ出し、背中を押して走らそうとする。そのうち少しずつ走るようになって、みるみる体型が変わっていき、6年のマラソンでは優勝してしまった。
山口いじめられっ子だったのに、そのY君とは仲がよかったんですか?
木家そうですね。不思議と彼はフレンドリーでした。マラソンのことも、後から聞いたところによると、担任の先生が私のことを心配してくれて、Y君に頼んだらしいんです。卒業式では先生が壇上に上げてくれて、「木家君は5年までビリだったのに6年で一番になりました」と紹介してくれました。おかげで走ることが好きになり、世界が変わりました。
山口良い友達、良い先生じゃないですか。聞いていて鳥肌が立ちました。
ケガに悩まされた
中学・高校の陸上部時代
山口それで中学から陸上の長距離を始めたんですね。
木家そうです。運動神経は良くないので、長距離だけに専念しました。練習は人一倍しましたね。朝公園を30分くらい走ってから学校でも朝練、放課後また部活で練習。剣道部の器具をこっそり借りてウエイトトレーニングもやりました。おかげで速くなりました。高校も担任の先生の勧めで陸上の強豪校へ入学しました。ただ、故障が多くて大会ではあまり良い成績は残せませんでしたね。
山口練習のやり過ぎですか?
木家おそらくそうでしょう。中学時代からヒザに水がたまって、よく抜いていました。高校時代は大学で箱根駅伝に出るのをめざしていましたが、高3のとき大学から陸上部の先生が見に来るというレースの直前に足の親指を傷めてまともに走れず、「自己管理ができない選手はダメ」と、推薦入学の話もなしになってしまった。
小学校の文集に書いた
「先生になりたい」という言葉
山口そこから教員をめざしたわけですね。
木家陸上しか打ち込めるものがなかったので、しばらくは何をしていいかわからず茫然としていたんですが、そのときまた例のY君が噂を聞きつけてやってきて、「お前、小学校の文集に書いたこと覚えてるか?」と言うんです。「小学校の教員になりたい」と書いていたらしいんですが、自分では忘れていました。
山口でも、そう書いた以上、何かきっかけがあったんでしょう?
木家思い返してみると、担任の先生がいじめられていた私の面倒をみてくれたことで、自分も将来そういう人になりたいと思ったらしいんです。それをきっかけに受験勉強を始め、一浪して大学の教育学部に入りました。
山口そのY君は不思議な人ですね。大事なときに現れて木家さんを救ってくれる。天から神様が遣わしたんじゃないかという気さえします。Y君の言葉にしたがった木家さんもまた素直ですね。
木家陸上を失ってすがるものがなかったからでしょうね。
震災ボランティアで感じた
子どもを指導する難しさ
山口プロフィールによると、教育学部に進んでそのまま教員になったわけではないんですよね?
木家大学3年のとき、ショッキングなことがあったんです。阪神淡路大震災の復興支援ボランティアに行ったんですが、がれき撤去の手伝いが一段落した頃、震災のトラウマを抱えている子どもをケアする仕事を手伝うようになった。
口がきけなくなった子や、トイレに入っているときに被災して、トイレに行けなくなってしまった子など、色々な心の傷を抱える子どもがいました。子どもの心の繊細さ、傷つきやすさに触れて、「このまま教員になっちゃいけないんじゃないか?」と考えたんです。
山口そこから色々な経験を積むわけですね?
木家静岡の田舎に年間約5万人以上の子どもを受け入れて自然を体験してもらう自然学校というのがあるんです。そこで3年間指導員をやりました。乗馬を教えたり子どもたちを連れて青木ヶ原の樹海を案内したりするんです。子どもの指導もそうですが、樹海では自然の良い面だけなく、厳しく恐ろしい一面など、色々なことを学べた3年間でした。
海外で経験した
様々な試練と人のやさしさ
山口そこから海外に行くんですよね?
木家日本でも「総合学習」という授業が始まるというので、教員になる前に総合学習の先進国であるカナダやオーストラリアで見てみたいと思ったんです。
100万円貯めて、ラジオの英会話で英語を勉強して、まずオーストラリアに行きました。しかし、自分の英語がまったく通じない。ショックを受けて、まず英語学校に入りました。
その間、持っていた100万円を使い果たし、オペラハウスの前で物乞い同然の生活をして20セントのソフトクリームで飢えをしのいだりしながら、必死でアルバイトを探しました。日本料理店の皿洗いなど、なんでもやりましたね。
それでも生活は厳しくて、中華街の残り物で1週間食いつないだりもしました。大量の料理が閉店間際になると1ドルで買えるんです。
山口強烈な経験ですね。
木家そのうち知人に紹介されて、日本人とオーストラリア人の親をもつ子どもに日本語の補習授業を行う学校で週1回、補助教員を務めるようになり、乗馬も教えるようになりました。さらに、そこの先生に紹介されて公立の学校で日本語を教えるようになりました。
毎朝近くのビーチでサーフィンをしてから仕事に行く、なかなか快適な生活でしたね。ちょうど2000年のシドニーオリンピックの年で、女子マラソンを沿道で観戦したりもできました。
バックパッカーのような感覚で
カナダ、アメリカへ
山口ずいぶん極端な変化ですね。
木家人のつながりに助けられました。1年後にカナダのバンクーバーに行ったのも、シドニーの先生仲間から「バンクーバーの日本人学校で人が足りないらしい」と聞いたからです。しかし、行ってみると聞いた場所は更地になっていて、その学校が閉鎖されたことを知りました。
山口情報が古かったんですね。
木家オージーのアバウトさに私も染まっていて、よく確認しないまま行ってしまったんです。そこでユースホステルに泊まって必死に仕事を探し、日本人とカナダ人の夫婦の家に住み込みでベビーシッターとして働くことになりました。
その夫婦が良い人たちで、とても親切にしてもらいました。日本語学校も紹介してもらい、3校かけもちで教えるようになりました。
3カ月ほどして自然学校時代の知人から、「アメリカのモンタナ州でアウトドアの会社が乗馬ツアーのガイドが足りないので来ないか」という話を聞き、そちらに移ることにしました。
山口ずいぶん目まぐるしいですね。
木家1カ所に住むというより、バックパッカーの長期滞在のような感覚でしたね。モンタナに行き、馬の世話から仕事を始め、いよいよグランドキャニオンの乗馬ツアーに出かける直前に、9.11の同時多発テロが発生したんです。
全米が騒然とする中、ツアーはキャンセルになり、テロを警戒して外国人の入出国が難しくなるかもしれないということになり、私も急遽日本に帰りました。
帰国後、教員時代に
始めたトライアスロン
山口帰国後すぐ教員になるのは難しくなかったですか?
木家難しかったです。まず学校の中のチームティーチングという複数の教員が教えるプログラムの補佐を半年務め、横浜の小学校に臨時任用で教員を2年務め、そこから一般採用試験を受けてようやく正式に教員になりました。
山口結婚は教員時代ですか?
木家はい。教員の3年目に結婚しました。妻とは自然学校時代にアルバイトに来ていたのが縁で知り合いました。その後彼女は横浜の学校給食の管理栄養士になっていたんです。寄り道だらけの生き方をしている私のような男となぜ結婚してくれたのかわかりません(笑)。
食事が充実したせいか、結婚後かなり太り、なんとかしなければと思ってまた走り始めました。
山口トライアスロンを始めたきっかけは?
木家また海外生活がしたくなって、海外の日本人学校派遣に応募して合格したことです。赴任先はアフリカなど遠くて生活に制限が多い土地になる可能性が高かったので、赴任前にまだやってないスポーツをやってみようと考えたんです。
山口スイムとバイクは経験があったんですか?
木家バイクは正教員になった頃から少しやっていたんです。夏休みに折りたたみ自転車を持って新幹線で京都に行って、東海道を自転車で帰ってくるといったことをやり、3年目からはロードバイクに乗るようになっていました。
何かやったことがないスポーツをと考えたとき、「バイクとランができるならトライアスロンできるんじゃないか?」と思ったんです。まったく泳げなかったのでスイミングスクールで子どもたちに混じって一から練習しました。
山口初レースは?
木家2008年の日産カップです。スイム400m、バイク20㎞、ラン3㎞の初心者向け種目に出たんですが、海に飛び込むのが怖くてパニックになり、ブイにつかまって呼吸を整え、次のブイまで泳いでまたつかまって休むという泳ぎ方でなんとかクリア。
スイムで波酔いしてしまい、バイクではコース上で吐き、中学生に抜かされるというさんざんなレースでした。それでもゴールしたらものすごい達成感があり、すっかりトライアスロンにはまりました。それから毎月レースに出て、10月の東扇島で初めて51.5㎞に出て4位になりました。
韓国で出会ったアイアンマン
KONAには「すぐ出られる」と思っていた
山口アイアンマンをめざすようになったのはいつからですか?
木家アイアンマンを知ったのは韓国でした。海外派遣先が意外にもアフリカなどの僻地ではなく、すぐ近くの釜山だったんです。3年間、妻と一緒に赴任しました。日本の勤務より時間に余裕があったので、トライアスロンのトレーニングもできました。
ロードバイクのショップにアイアンマン好きの店主がいて、「トライアスロンやるならアイアンマンでしょ」とか言いながら、KONAのビデオを見せてくれたんですが、そのときは絶対無理だと思いました。
それでも店に行くたびにしつこく勧められ、いつしかフルマラソンでサブスリーが達成できたらやろうという気になっていました。
山口人との出会いがアイアンマンに導いてくれたんですね。
木家私の人生はすべて人との出会いのおかげです。釜山2年目の冬にフルマラソンに出たらサブスリーが達成できたので、まずその年の済州島のハーフアイアンマンに出ました。スイムで疲れ果て、バイクで意識が朦朧とするくらいひどいつぶれ方をしました。
初ロングは2010年6月の済州島のスーパーマンというスイム3㎞、バイク140㎞、ラン30㎞の大会でしたが、これもフラフラでなんとかゴール。9月に木浦(モッポ)のマイティマンというアイアンマンディスタンスのレース出ましたが、これもスイムから脚がつって2時間くらいかかり、さんざんな出来でした。
山口木家さんらしいデビューですね。
木家翌年になるとロングにも慣れてきたので、コナをめざしてトレーニングを増やし、「10時間切ってコナの出場権をとるぞ」と自信満々でアイアンマン(以下IM)コリアに出ました。しかし、やっぱりスイムでフラフラになり、バイク・ランで脱水になり、最後は泣きながらゴール。タイムは11時間44分でした。
頭にきて翌月、木浦のIMディスタンスの大会に出たら、バイクが主催者のミスで190㎞あったんですが、エイジ3位に入ることができました。直前に親知らずを抜いて練習ができず、気楽に出たのがよかったのかもしれません。
山口挫折からのいきなり好結果という展開も木家さんらしいですね。当時、木家さんにとってKONAとはどういうものだったんですか?
木家「すぐ出られる」という思い込みが見事に打ち砕かれ、近そうに見えて遠い存在でしたね。韓国から帰国してまた横浜の小学校の教員生活が始まったんですが、忙しくなるとロングのトレーニングができなくなると思い、すぐIMメルボルンに出場しました。しかし、バイクで眠くなり、ランに入ったのは夕方という失敗レースで、タイムは自己ワーストの12時間46分でした。
教員をやめてトライアスロンに
挑戦を始めた矢先に大ケガ
山口2013年に教員をやめたんですよね。それはなぜですか?
木家トライアスロンに集中するためです。「仕事が忙しいからKONAに行けなかった」というのがいやだったんです。
山口奥さんは反対しませんでしたか?
木家喜びはしませんでしたが、「2年くれ。KONAに行ったらまた安定した職について人生を再スタートするから」と言ったら納得してくれました。
山口良い奥さんですね。元々、木家さんの自分の気持ちに正直で、何をするかわからないところが嫌いじゃないのかもしれませんが。
木家ところが本格的にトレーニングを始めて数カ月したら右脚が痛くて歩くのもままならなくなってしまった。病院に行き、X線やMRIなどで検査してもらいましたが、原因がわからない。
知人たちに勧められた病院にあちこち行きましたが、やはり原因がわからず、先生によって診断もまちまちで、どう治療したらいいのかわからない状態がしばらく続きました。
山口KONAに本格挑戦するというタイミングで大きな故障をするというのもまた、木家さんらしい人生の展開ですね。
木家そうこうするうちにトライアスロン仲間に紹介されて呉竹学園の東洋医学臨床研究所に行ったら、「股関節ではないか?」と言われ、病院の整形外科を紹介していただきました。そうしたら股関節唇(しん)損傷、大腿骨を包み込む軟骨が損傷していたことがわかりました。
山口いくつも病院で診てもらってわからなかったのが、そのときになってわかったというのが不思議ですね。
木家X線でもMRIでも、普通の撮り方をすると写りにくい場所らしいんです。東洋医学臨床研究所の先生が可能性を絞り込んでくれたおかげで撮影することができたということのようです。
その先生は触診だけで股関節の可能性を言い当てましたから、すごいと思いましたね。それからは東洋医学臨床研究所で痛みの治療をスポーツ整形でリハビリを受けながら、少しずつ歩けるようになり、走れるようになりました。
東洋医学のすごさに感動し
鍼灸を学びながら治療
山口股関節唇(しん)損傷というのは手術で治すような故障ですよね?
木家はい。整形外科で手術の手配もしていました。ただ、「手術したら歩けるようにはなるけど、走れなくなる可能性があるから、その前に一度無茶していいよ」と外科の先生に言われ、フルマラソンに出たら2時間40分切りという自分としてはすごいタイムが出たんです。
そうしたら整形外科の先生に「身体の使い方が変わって、骨に負担をかけない走り方ができるようになったようだから、手術はやめて保存療法で行こう」と言われました。そこから鍼灸師をめざして、4月に呉竹学園に入学して鍼灸を学び始めました。
山口そこも木家さんらしい展開ですね。
木家東洋医学臨床研究所の鍼灸治療、病院でのリハビリのおかげで歩けるようになり、走れるようになったので、「この治療法を自分も身につけて、人の役に立ちたい」と考えるようになったんです。3年間鍼灸を学び、2017年に国家資格を取りました。今はスポーツクラブの治療院で鍼灸按摩指圧マッサージ師をしながら、トレーナーも務めています。
学生時代にNESTA(全米エクササイズ&スポーツトレーナー協会)PFTというアメリカのパーソナルトレーナーの資格を取っていましたし、自分が大人になってからバイクとスイムを始めたので、初心者の気持ちを理解しながら指導できるんです。
かつての情熱が蘇った
KONAチャレ応募
山口トライアスロンはいつから再開したんですか?
木家正確にはやめてなかったんです。2013年は夏にけがをしてからIMカナダに出ましたが、徐々に体力も戻り2014年は韓国求礼(グレ)の70.3に出ました。当然成績はさっぱり。2015年に最後のアイアンマンにしようと洞爺湖のIMジャパンに出ました。
2週間前に肉離れを起こし練習はスイムのみ。やれるところまでやって痛みが出たらリタイアしようと考え、スイムだけは順調でしたが、バイクでは登りで脚の感覚がなくなり、ランはなんとか前に進むだけ。最後のほうで脚の感覚が戻って走れるようになり、エイジ9位でゴールしましたが、それで満足でした。
その後はアイアンマンに対する気持ちが薄れ、2017年に珠洲トライアスロンに出たくらいです。この年は右そけい部が痛いので検査したら、恥骨疲労骨折が判明しました。
山口まさにケガのデパートですね。2018年、KONAチャレに応募したのはどういう心境の変化だったんですか?
木家募集告知を診て、「やり残したものがある」「もう一度、つわものどもの戦場に戻りたい」という気持ちが湧いてきたんです。レギュラーではなくフレンドメンバーでしたが、選ばれて、「同じ志の人たちと一緒にチャレンジすることで、自分の弱点を第三者の視点から知ることができるのでは?」と思い、参加することにしました。
山口やはり仲間がいるというのは大きいですよね。
木家ところが4月にバイク練習中に落車して肋骨を折り、仙腸関節骨挫傷にもなり、この年は結局IMには出ませんでした。
2019年は1年かけて準備し、IMコリアに出場予定でしたが、台風で中止。4週間後のIMマレーシアに出ました。ピークがずれましたし、コリアめざして平坦コースで練習していたので、アップダウンがあり、コリアと違って高温多湿なマレーシアは不利だとわかっていました。
スイムで他の選手に足首をつかまれた拍子に計測チップがはずれてしまい、再発行してもらうのに10分くらいロスしたというアクシデントもあり、他にもアクシデントが重なり、結局KONA には届きませんでしたが、オンライン・コーチングを受けているアメリカの「Endurance Nation」のコーチと話し合った通りのレース展開ができ、初めて痛みなくレースを終えることができたので、自分としては満足でした。
「これでKONAチャレを卒業し、鍼灸師やトレーナーとして仲間をサポートしていければいいかな」と思っていたんですが、今年になってレギュラーメンバー昇格を告げられ、もう一度最後のチャレンジをすることになりました。
ケガとつきあいながら
KONAをめざす日々を発信
山口KONAチャレ最後の年ですが、今の気持ちを聞かせてください。
木家妻にはこれまで栄養に気を配った食事など、本当に支えてもらいました。レースで応援してくれるだけでなく、自分もやりたくなって、珠洲大会には一緒に出場しました。その妻に、十何年前「KONAに連れて行く」と約束してからずっと果たせていない約束を今年こそ果たしたいと思います。
山口鍼灸師でありトレーナーでありアイアンマンにも出ているトライアスリートである木家さんは、KONAチャレのメンバーだけでなく、トライアスリートにとって貴重な存在ですから、これからも情報を発信し続けてほしいと思います。
木家ケガでやめていったアスリートをたくさん見てきましたが、私自身ケガをたくさんしたから、その気持ちがわかります。ケガとつきあいながら、フルタイムで働き、楽しんで練習し、アイアンマンに出ているということをSNSやブログで発信していますが、コメントをいただいたり、レースで声をかけてもらうとこちらも元気が出ます。
考えてみれば子どもの世話でも、鍼灸師やトレーナーの仕事でも、誰かをケアすることでこちらも元気をもらっているんですね。これからも色々な人と出会いながら、人の役に立てることをしていけたらと思います。
山口今日は楽しいお話、ありがとうございました。