KONAチャレに参加した当初は仕事が忙しく、睡眠時間は4時間。平日は夜中にトレーニングしていたという小濱さん。仕事環境が改善されてタイムが急速に伸びた。トライアスロンをやる理由は「生きているという実感を味わうため」。そんな小濱さんが19歳でトライアスロンを始めたきっかけや、38歳のとき10年以上のブランクを経て再び始めた理由には、友達の死が大きく関わっていた。
プロフィール
こはま・やすのり
1968年千葉県・柏生まれ。生命保険会社勤務。小学校から中学校まで野球でピッチャー。高校時代はバスケットボール部だった。早稲田大学在学時、19歳のときトライアスロンを始め、佐渡トライアスロンAタイプなどに出場。仕事の忙しさから社会人3年目で一度トライアスロンを離れたが、2006年、38歳のとき高校・大学時代の親友の死をきっかけに再び走り始め、2012年からトライアスロンを再スタート。2018年KONAチャレに応募しフレンドメンバー、2019年夏レギュラーメンバーになった。
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山口一真
1982年東京生まれ。小学校から大学までバスケットボールに打ち込む。社会人になってスポーツから遠ざかり、一時期体重が100kgを超えたが、選手時代のノウハウを活かした食事と運動により1年間で40kgの減量に成功。2018年メイクスのKONAチャレ担当になったのを期にスイム・バイク・ランのトレーニングを始め、木更津トライアスロンでレースデビュー。秋にはアイアンマン台湾を完走した。以後も毎年アイアンマンや宮古島などに出場を続けている。世界のレジェンド稲田弘さんとの対談をきっかけに、自身もKONA挑戦を表明。チャレンジの模様は下記ブログやインスタグラム、フェイスブックでチェックを。
「100年コーチ。」山口一真のブログ>>https://ameblo.jp/makes100coach
KONAチャレ当初は
夜中にトレーニングしていた
山口あらためて小濱さんの資料を拝見していて驚いたのが、「睡眠時間4時間」とあったことでした。そんなに寝ていなくて、よくトライアスロンができるなと。
小濱それはKONAチャレに応募したときです。2年目、去年の4月から仕事の環境が変わって、もっと眠れるようになりました。今はコロナで在宅勤務が週2〜3回ありますから、6時間くらい寝てます。
山口でも、それまでは4時間睡眠でやっていたわけでしょう?
小濱当時は仕事が夜10時くらいまであって、帰宅が11時半。夜中の12時とか1時に走ってました。朝は5時に起きて7時までに出社(笑)。
山口去年、小濱さんがいきなり速くなったと記憶しているんですが、仕事の環境が改善されたことが関係しているんでしょうか?
小濱そうですね。時間がとれるようになって、平日も朝晩トレーニングできるようになったし、睡眠時間も増えて、トレーニングの質が全く変わりました。疲れた状態でトレーニングするのと、休んで疲れをとってからトレーニングするのではまるで違います。去年の皆生トライアスロンでは、一昨年より1時間半くらい速くなりました。
「生きてる!」という実感を
味わうためのトライアスロン
山口小濱さんにとってトライアスロンとは何ですか? なぜ、何のためにトライアスロンをやっているんでしょうか?
小濱「生きてる!」という実感のためです。
最初にトライアスロンを始めたのは19歳、大学生のときでした。1989年くらい。まだトライアスロンというスポーツが日本であまり知られていなかった頃です。
社会人になって仕事が忙しくなり、3年目で一度トライアスロンから離れたんですが、2006年、38歳でまた走り始め、2012年にトライアスロンを再開しました。
山口そのきっかけは?
小濱高校・大学時代の親友が亡くなったことです。彼は高校時代のバスケットボール部の仲間で、学校は東京・練馬でしたが、柏から一緒に通っていました。
山口中学からの友達だったわけではないんですか?
小濱中学時代は知らなかったんです。東京の高校で知り合って、偶然地元が同じ柏だった。話すようになったきっかけは、顔が中学時代の後輩に似ていたからだったんですが、話してみてそれが彼の従兄弟だとわかったんです。
山口なかなか運命的な出会いですね。
小濱大学時代もお互いすぐ近くの塾で講師のアルバイトをしていて、週に何度も飲んでいました。大学4年で最後の佐渡トライアスロンのAタイプに出たときも、卒業旅行を兼ねて応援に来てくれたんです。その年はバイクのメカトラブルがあって、完走できなかったんですが、その後、車で一緒に東北を旅しました。
山口ほんとに仲のいい友達だったんですね。
小濱卒業後は別々の会社で、お互い地方の転勤もあり、家庭も持って、なかなか会えなくなりましたが、連絡はよく取っていて、悩み事を相談したり、出張などで機会があれば会って飲んだりしていました。
親友の突然の死が
生き方を変えるきっかけに
山口その友達の死因は何だったんですか?
小濱くも膜下出血です。何の兆候もなく、ほんとに突然でした。
山口そういう親友が亡くなったのはショックだったでしょうね。
小濱気が動転してどうにもならない状態でした。当時は仕事が忙しくて、休みが月に1〜2回という状態でしたが、友達の死をきっかけに「こういう生き方をしていていいのか?」と考えるようになり、仕事をセーブしながら、走り始めたんです。
山口それが2006年、38歳のときですね。今、私が38歳ですから、他人事とは思えません。
大学までバスケットボール部だったのも通じるところがあります。社会人になって仕事に追われ、太りだして、30歳のときには107kgありました。私は元の自分に戻りたいと思い、トライアスロン、マラソンを始めたんですが、小濱さんの場合は、友達の死をきっかけに、もっと「生きてる!」という実感を味わいたいと考えるようになり、トライアスロンを再開したということでしょうか?
小濱彼が応援に来てくれた佐渡トライアスロン、ゴールの近くで夕陽をバックに待っていてくれた彼の姿がずっと頭から離れなかったんです。「暗くなってから戻ってくる」と言っていたのに、タイムアウトになってバスに収容され、夕陽が沈む頃に戻ってきたんですが、もう一度あの夕陽が沈む時間に佐渡でゴールしたいと考えていました。
ただ、ブランクが長いので、いきなりトライアスロンは難しく、走るところから始めました。
山口5〜6年はマラソンに専念したんですね。
小濱走るたびに記録が伸びていき、サブスリーもいけそうだとなったあたりで、トライアスロンに復帰しました。それが2012年。翌年10月に大阪マラソンでサブスリーを達成しました。
大会に応募したとき、亡くなった友人のことを書いたら新聞社から取材を申し込まれ、「亡き友に捧げるサブスリー」みたいな感じで、新聞に載ったんです。
ゴール直後にインタビューされたんですが、友達への「ありがとう」の気持ちで、泣きながらゴールしたので、正直インタビューは上の空でしたが(笑)。
山口そのときのタイムは?
小濱2時間59分02秒です。その後さらにタイムを伸ばして2時間55分40秒がベストです。
山口走るのは元々得意だったんですか?
小濱いえ、持久走はまったくダメで、小中学校時代はマラソン大会でいつもビリでした。後ろから押されながらゴールするタイプだったんです。
山口それが亡くなった友達への思いで、サブスリーまでいけるんですね。
小濱それまではサブスリーを達成したら、記録を追うのはやめて、ブラインドランナーの伴走をやりたいと考えていたんですが、やはりトライアスロンがやりたくなって、前年にスプリントの大会で復帰しました。
すべての始まりには
もうひとつの死があった
山口そもそも大学時代、最初にトライアスロンを始めたきっかけは何だったんですか?
小濱それはまたとてもつらい思い出なんですが、小学校時代に同級生だった女の子の死がきっかけだったんです。
小学校の3年から6年まで同じクラスで、ずっと大好きだった女の子でした。その子が5年のときに脳腫瘍になって、中学2年のとき亡くなったんです。
山口中学2年というと13歳くらいですね。そこから19歳でトライアスロンを始めたことにどうつながるんでしょうか?
小濱その子の7周忌にお母さんがその子と仲が良かった友達を集めて食事会を開いてくれたんですが、そのときお母さんが「娘は小濱君のことが大好きだったのよ」と言ったんです。そこですごい後悔と自己嫌悪に襲われました。
その子が病気になった頃はまだ子どもで、彼女が学校に来なくなるにつれて、好きだった気持ちが薄れていき、いよいよ最期というとき、友達と病室に呼ばれてお別れの握手をしたんですが、僕は病気のことがよくわかっていなくて、触れたら感染すると思っていたものですから、すぐ病室から出てしまい、手を拭いたりしたんです。最低なやつですよね。
もっと知識があったら、彼女の助けになれたかもしれないのにと思うと、悔しくてしかたなかった。そんな自分を罰したい、自分を痛めつけたいと思うようになったんです。そんなときにトライアスロンを知って、3種目とも苦手だから、やろうと思った。
山口それはまたすごい話ですね。
小濱元々負けず嫌いなので、中学でヒザを傷めて野球をやめたときも、たまたま身長が高くて有利だったから高校でバスケットを始めたくらいなんです。
海なんて怖くて泳いだことがなかったし、マラソンもビリでしたから、トライアスロンなんてまともにゴールできそうもない。でも、それくらい過酷なことをやらないと自分の気が済まなかった。
山口私もトライアスロンを始めるまでほぼカナヅチでしたから、海が怖いという気持ちはわかります。ショートはともかく佐渡にも出たんでしょう?
小濱佐渡は大学3年のとき初めて出てなんとか完走したんですが、スイムは全部平泳ぎでした。そもそもクロールで泳ぎ切れるようになったのは5年くらい前で、学生時代はすべて平泳ぎ。
海がこわいからほんとはブイの近くを泳ぎたかったけど、邪魔にならないように一番外側を泳いでました。なんとかスイムを終えると、「生きててよかった」と思うくらいきつかった。(笑)
KONAをめざそうと思えるような
レベルじゃなかった
山口その頃KONAというのは知っていたんですか?
小濱まだ日本のトライアスロンの初期ですから、アイアンマンがハワイで始まり、この競技の最高峰だということは一応知っていました。ただ、完走も危ういわけだし、スイムは平泳ぎですから、自分がKONAをめざすなんてことは考えもしませんでしたね。
山口社会人の3年目まで続けて、一度トライアスロンから離れたのは、仕事がキツかったからですか?
小濱仕事はハードでした。それに加えて根が負けず嫌いですから、仕事で結果を出さないと気が済まない。それで両立が難しくなりました。
山口負けず嫌いから仕事にのめり込んだわけですね。でも、それから十数年たって親友の死をきっかけに、そういう生き方を変えたいと思った。
小濱そうです。
山口でも奥さんはよく許してくれましたね。仕事で帰りは遅いし、夜中にトレーニングして、朝は早くから出て行くわけでしょう? 明らかに普通じゃないですよね(笑)。
小濱友達の死が与えたショックを理解してくれていたというのが大きいと思います。親友は結婚式にも出てくれて、その後も家族ぐるみの付き合いでしたから、妻とも親しかったんです。
自分を変えたくて
応募したKONAチャレ
山口KONAチャレに応募したのは、どんなきっかけがあったんですか?
小濱直接のきっかけはトライアスロンをやっている会社の後輩に、KONAチャレというのがあると教えられたことですが、応募する気になったのは自分を変えたかったというのが大きいですね。
元々友達が少なくて、仲間とかグループに入っていかないタイプだったんですが、KONAチャレならKONAをめざすという共通の目標がある新しい仲間ができて、面白いんじゃないか、自分の人としての幅が広がるんじゃないかと思った。
山口生き方の理想を追求してますね。友達の死をきっかけにトライアスロンを始めたり再開したりしたというお話も興味深いですが、自分の現状に満足せず、より良い自分になろうとする姿勢もすばらしい。
小濱KOANチャレの最初のミーティングで、竹谷(賢二)さんが自分を変えていくことの大切さについて話してくれましたよね。KONAに出ることも大切だけど、そのために何をやったらいいか、何をどう変えていったらいいのかを考え、実践していくことが大切だと。
KONAチャレでいろんなアスリート仲間と会って、いろんな考え方、やり方を学ぶことができて、とても勉強になりました。
山口メイクスという会社には、自己実現感を最大化できる環境作りというテーマがあるんですが、より良い自分になろうとするのはまさに自分の自己実現感を最大化していく行動ですよね。
誰でも課題があって、大きな課題でなくても、それらをひとつひとつ解決していくことで自己実現していくことができる。そういう考え方や行動をしていくところに、KONAチャレの意味があるのではと思います。
見えてきたKONAという目標
山口KONAが目標として見えてきたのはいつ頃からですか?
小濱KONAチャレに参加したのをきっかけに、KONAというものを意識し始め、仕事の環境が変わって睡眠時間が確保でき、トレーニングの質が上がり、去年、皆生で前年のタイムを大幅に更新して100位台に入り、ショートで初めて表彰台に上がったりして、「俺、速いのかな?」と思い始めた。
「がんばればKONAに行けるかもしれない」と考えるようになったのは、そのあたりからですね。
山口まだアイアンマンシリーズには出場していないんですよね?
小濱出ていません。去年、9月に韓国で初アイアンマンを経験し、自分の位置を確認して、今年本格的にKONAのスロットを狙う計画だったんですが、韓国のレースが台風で中止になってしまい、今年もコロナでレースがなく、計画が狂いました。
コロナ禍で基礎づくりに取り組み
成果を確認
山口レースがない状況でどんな過ごし方をしてきましたか?
小濱もう一度基礎体力の改善に取り組んでいます。元々身体が細くて、筋トレをやっても筋肉がつきにくい体質なんです。中学時代からヒザに故障を抱えていて、ヒザをいたわって走るためにも、筋肉を付けたほうがいいので、医師やトレーナーに相談しながら色々工夫しています。
山口効果は出てきましたか?
小濱バイクの測定では20分のFTP値が270に上がりました。最初が206ですから大幅アップです。あまりバイクに乗ってないのにこれだけ上がったのは筋トレの効果だと思います。
山口どんな筋トレをやっているんですか?
小濱以前は筋持久力をつけようと考えて、負荷より回数を多くしていたんですが、中止になった韓国のアイアンマンで竹谷さんと相部屋になって、「持久力は(ロング対策の3種目のトレーニングで)もうついてるから、負荷を最大に上げたほうがいい」とアドバイスしてもらい、筋トレの内容を変えたんです。そこから1年くらい大きな負荷をかけてやっています。
山口コロナ禍でもFTPが急上昇したというのは面白いですね。
小濱ほかに筋トレをバイクの動きの一部としてやるといったことも、竹谷さんにアドバイスいただいて実践しています。たとえばレッグプレスでも、ペダリングを意識して、下まで押し下げないとかですね。
トライアスロンLAB(Luminaのオンラインセミナー)の筋トレについてのセミナーで、篠崎友さん(※ロングを主戦場とするプロトライアスリート)も「筋トレの時間はバイクトレーニングの時間と思っている」と言っていましたが、私もそういう意識でやっています。
山口コロナ禍でもやることはあるということですね。
小濱何をすればどう数値やパフォーマンスが上がるか考えながら取り組むのは好きですね。今回筋トレで狙い通りの結果が出てすごく満足です。コロナ禍で制約があっても、やりがいを感じながら取り込むことができています。
妻の理解があるからできる
トライアスロン
山口今、小濱さんにとってKONAとはどんな存在ですか?
小濱わかりません。来年アイアンマンの予選レースに出られたら見えてくると思います。
山口台風でアイアンマンに出られなかったり、コロナでレースがなくなったりで、計画が1年半くらいずれたわけですから、来年をKONAチャレの2年目と考えてやっていけばいいかもしれません。
小濱ただ、あまりのんびり構えていられない事情もあります。仕事も今は本社勤務で休みやトレーニングの時間を確保できていますが、支社の営業に異動したら忙しくなりますし、休暇をとって海外のレースに出る余裕もなくなるでしょう。
妻もKONAチャレのことは理解してくれているので大目に見てくれていますが、いつまでも今の状態を続けているわけにはいきません。
山口私も仕事とトライアスロンで家族サービスが後回しになりがちの生活をしていますから、それはわかります。妻は理解してくれているけど、「今度の週末、1日空いたからどこか行こうか」という話をしたときの反応を見ると、彼女が日頃どれだけ我慢しているかがわかったりします。
小濱うちは子どもがいないので、支社勤務のときも地方についてきてくれるんですが、妻には孤独な時間を過ごさせてきました。
山口結婚はいつだったんですたか?
小濱社会人になって最初の赴任先だった盛岡で知り合い、結婚しました。
山口そのときはまだ学生時代からトライアスロンが続いていたときですか?
小濱そうです。最後ぐらいの時期ですね。彼女には自分がトライアスロンを始めるきっかけになった小学生時代の同級生のこともそのとき話しました。
山口小濱さんにとってトライアスロンがどういうものか、理解してくれているんですね。だからこそ奥さんの気持ちも大切にしてあげたいですよね。
「生きている!」「楽しい!」と
感じられる幸せ
山口コロナ禍でもパフォーマンスが上がっているとしたら、来年はぜひKONAをゲットしたいですね。来シーズンについてはどんなプランを描いていますか?
小濱6月のアイアンマン・フィリピンで自分のレベルを確認して、去年出られなかった9月の韓国でKONAを狙う予定です。
自分を変えていくことが大事だとはいえ、いつまで今のような練習ができるわけでもなければ、海外のレースに行ける保証もないので、この環境が変わらないうちにKONAへ行きたいですね。
山口今でも亡くなった親友は常に小濱さんの心の中にいますか?
小濱もちろん。だからこそ、彼らに感謝しながら、「自分は生きてる!」って感じることができる。
山口世界最高齢のKONA完走者・稲田弘さんも、「おれは今、生きてるぞ!」と走りながら叫ぶことがあると言っていましたが、それに通じるものがありますね。
小濱いつも「たのしい!」と叫びながら走ってます。佐渡の大会で私が何か叫んでるので、応援に来てくれた妻に、「何言ってるの?」って訊かれました。(笑)
山口まさに自己実現感の最大化を感じる瞬間ですね。
小濱長い距離を動ける身体でいられること、そこまで自分が成長してきたことが感じられる幸せをかみしめています。
山口その思いを胸に、ぜひKONAをゲットしてください。今日は貴重なお話をありがとうございました。