筋骨隆々の身体と大きな眼が強いエネルギーを感じさせる木下さんは、長野県松本市在住の自衛隊員。少年時代から強くなることを目指して総合格闘技で自分を鍛え、自衛隊では精鋭のレンジャー部隊で過酷な訓練を積み、活躍してきた。キャリアを積んで任務が組織の運用に変わり、強さの追求が一段落した頃、KONAの動画を見て、新たな目標を発見。そこから木下さんのトライアスロンが始まった。
プロフィール
きのした・たかみつ(写真左)
1971年長野県飯田市生まれ。高校時代に総合格闘技の「大道塾」に通い、「最強」を目指すようになる。グリーンベレーや自衛隊特殊部隊の存在を知り、高校を卒業して陸上自衛隊に入隊。松本の山岳レンジャー、習志野の空挺団で活躍した。特殊部隊の試験に合格した直後にパラシュート降下演習でケガを経験。その後、仕事が組織の運用などデスクワークが主体になり、自分を心身ともに強くする新たなチャレンジとしてトライアスロンを始めた。KONAチャレでは2年間フレンドとして活動する間、2018年にアイアンマン・マレーシアで初アイアンマンを経験したが、2019年は台風の災害支援活動でレース出場ゼロ。2020年は「絶対にKONAスロットを取る」と覚悟を決めて秋のマレーシアに出場する。
Interviewer
山口一真(写真右)
1982年東京生まれ。小学校から大学までバスケットボールに打ち込む。社会人になってスポーツから遠ざかり、一時期体重が100kgを超えたが、選手時代のノウハウを活かした食事と運動により1年間で40kgの減量に成功。2018年メイクスのKONAチャレ担当になったのを期にスイム・バイク・ランのトレーニングを始め、木更津トライアスロンでレースデビュー。秋にはアイアンマン台湾を完走した。以後も毎年アイアンマンや宮古島などに出場を続けている。
動画を観ているうちに
KONAと恋に落ちた
山口木下さんはトライアスロンを始めるきっかけが、KONAの動画を観たことだったんですよね。動画で何を感じたんですか?
木下分かりません。元々トライアスロンは1日に3種目もやる中途半端な競技だと感じていて、全然認めてなかったんです。ところが、あるときたまたまKONAの動画を観て、「かっこいい!」と思ってしまった。
山口それで一気に好きになった?
木下いえ、最初は「だまされないぞ!」と思いました(笑)。しかし翌日も、その次の日も同じ動画を観てしまう。結局3カ月観続け、気がついたらKONAと恋に落ちていたんです。「絶対にKONAに出たい!」と思った。これは理屈じゃないですよね。
少年時代から「最強」を目指し
高校卒業と同時に自衛隊へ
山口それまではどんなスポーツをやってきたんですか?
木下信州の自然が近い環境で育ちましたから、子どもの頃から活発に動きまわってましたね。スポーツは剣道、野球、バレーボールなどいろいろやりましたが、走るのは嫌いでした。学校のマラソンもいやでしたね。高校から大道塾という総合格闘技の塾に入り、強くなることを目指しました。
山口格闘技にめざめたきっかけは何だったんですか?
木下子どもの頃から強さに対する憧れがありましたね。子どもにとって強さとは腕っ節の強さですから、格闘技が一番。「その中でも一番過激な格闘技を極めたい」ということだったと思います。大道塾は打撃から絞め技、金的蹴りまでなんでもありなんです。
山口格闘技少年が自衛隊に入ったきっかけは?
木下大道塾の先輩にグリーンベレー(アメリカ陸軍特殊部隊)のことを聞いたことです。「格闘技は1対1の勝負だけど、グリーンベレーは100人相手でも戦える。格闘技がいくら強くてもジャングルに放り出されたら役に立たないけど、グリーンベレーはどんなところでも強い」と言われ、なるほどと思いました。その頃ちょうど『野生の証明』という高倉健主演の自衛隊特殊部が出てくる映画をやっていて、「俺が目指すのはこれだ!」と思ったんです。それで大学に行かず、陸上自衛隊に入隊しました。
想像を絶する過酷な訓練を耐え抜き
山岳レンジャーに
山口自衛隊ではめざしていたものに出会えましたか?
木下はい。まず入隊後2年目に松本の山岳レンジャーに志願したんですが、ここはいくつもあるレンジャー部隊の中でも最高峰のひとつです。いろいろな試験に合格して、ようやくレンジャーになるための3カ月の訓練を受けることができるんですが、これが想像を絶する過酷さでした。
前半は各種潜入、偵察、襲撃、伏撃、破壊工作、格闘等の技術訓練を受けながら、ことあるごとに《反省》として、腕立て・スクワットを1日にそれぞれ約1000回をはじめ、体力強化のためさまざまなしごきを受けます。夜も不意打ちで非常呼集がかかるので、寝られない。毎日ケガや体調不良で1人2人と救急車で運ばれていくんです。
後半は山の中で限られた水・食糧と装備を背負い、睡眠を制限されて実戦的な作戦行動を行うんですが、夜間もライトをつけずに行動するので、目をつぶっていても足の感覚で目指す場所まで決められたルートで移動できるようになる。訓練が過酷過ぎて、3カ月が10年程に感じられました。次に生まれ変わるときは『もう人間に生まれたくない』とさえ思いました。関東甲信越から50人参加して、最終的に合格したのは15人でした。
山口木下さんはなぜクリアできたんですか?
木下結果そうなっただけですね。訓練全体のことを考えられるような状況ではなく、とにかく今日生き残ること、今やってることだけに集中しているうちになんとか3カ月が終わったということです。
最強を求めて空挺部隊のトップチームへ
さらに特殊部隊の試験にも合格
山口過酷な訓練で強くなれたと感じましたか?
木下はい。ただ、そこで満足したわけではありません。山岳レンジャーで活動し、教官も務め、30歳の時、自衛隊唯一の落下傘部隊である空挺団の空中機動作戦に特化した空挺レンジャーに志願しました。松本の山岳レンジャーと並んで過酷と言われる訓練に合格し、さらに空挺部隊の中の「リーコン」というトップチームに入りました。上には上があると分かると、どうしてもそこに所属して活躍したいという気持ちになるんです。
山口空挺部隊というのはパラシュートで降下したりするんですよね?
木下そうです。リーコンは普通のパラシュート降下よりはるかに高い1万メートルから夜間に降下して隠密作戦を行うチームなんです。訓練をクリアして入隊したとき見えた景色はすばらしいものでした。オリンピックの日本代表のように、自分も「防衛の日本代表になれた」という実感がありました。
山口でも、そこからさらに特殊部隊に行くんですよね?
木下はい。そこから先の世界については守秘義務があるので言及できませんが。
パラシュートの事故から
奇跡の生還
山口パラシュート降下の事故で大ケガを負ったことがあるとか?
木下平成15年(2003年)、約3万人が来場する富士山の総合演習でデモンストレーションを行ったときのことです。本来は高いところから降下するんですが、その日は雲がかかっていたので、地上が見える800mの高度からバックパックや酸素マスクは外して、銃のみを携行して降下しました。
普通は飛行機から飛び出して5秒で姿勢を安定させればいいんですが、そのときは3秒しか余裕がない。その高度ならを外すべきだったんですが、1週間毎日予行演習していたのでいけると思ったんですね。
勢い良くジャンプしたら回り過ぎてしまい、仰向けの状態でパラシュートを開かなければならないタイミングが来てしまい、パラシュートが身体の下から出て銃にひっかかってしまった。続いて予備のパラシュートもひっかかり、半開きの状態で、うまくコントロールできない。緊急事態には25の対処法があるんですが、どれも当てはまらない(笑)。
すごい速度で落下していく中、下を見ると戦車と樹木と土が見えました。戦車に落ちたら助からないし、木もリスクがある。土が一番低リスクだろうと判断し、なんとか土めがけて落ちました。
ほぼ制御不能な状態でなんとか落下地点を変えたんです。ただ、後から動画を見たらほとんど垂直に落下していましたね(笑)。普通は斜めに降りて受け身をとるんですが、ほぼ垂直落下で受け身をとり、カカト、ヒザ、腰など骨折しました。おかげでショックが吸収され、命は助かったわけです。
山口普通は死にますよね。
木下生き残ったのはこれまで私を含めてふたりだけ。もうひとりは首から下は全身麻痺ですから、幸運でした。
ベッドで筋トレを開始し3カ月で退院、
すぐに走り始めた
山口事故からのリハビリは過酷だったでしょう?
木下まず病院のベッドで「自衛隊員としては終わった」と思いました。しかし、あちこち骨は折れているものの、神経は生きているということが分かり、「良かった」と思いました。神経が断裂したら動けなくなりますが、骨折は元に戻りますから。
それで寝たまますぐに筋トレを開始しました。力が入る筋肉を動かし、腕にはウエイトを持って、手術の日以外は毎日筋トレです。リハビリが始まるとリハビリ室はもちろん、それ以外の時間も屋上で筋トレ。3カ月で退院し、すぐに走り始めました。
山口すごくポジティブですね。それは性格でしょうか、それとも過酷な経験から身についたものでしょうか?
木下元々ポジティブですね。ネガティブに考えるのはいやじゃないですか。どんなに悪いことがあっても、そこから学んで生かせば必ずプラスになる。
山口ポジティブだからいろんなことを乗り越えてきたんでしょうね。
木下残念だったのは、演習の3カ月前に合格していた特殊戦課程入校の資格を取り消されたことでした。考えてみれば当たり前なんですが、自分としては納得がいかず、1年後にもう一度セレクションを受けに行きました。試験官たちは唖然としていましたね(笑)。それに合格しました。入校資格を取り消されたその1年間は怨念のみで生きており(笑)、そうしないと納得できなかった。
山口そこからしばらくリーコンで任務についていた?
木下はい。平成16年(2004年)にはリーコンのスキルを生かして中東某国で任務に就きました。事故のことは海外にも知られていて、外国の軍人たちと飲みに行くとおごってもらえました(笑)。その後、情報収集部門に異動して、人や組織を運用管理する仕事に就き、平成23年(2011年)に習志野から松本に異動しました。業務はデスクワークが増えましたね。
目から鱗の学びや気づきがたくさんある
KONAチャレンジの楽しさ
山口KONAと恋に落ちたのはその頃ですか?
木下そうです。強さの追求が一段落し、次の目標がなかったところでKONAと出会った。
山口元々泳げたんですか?
木下苦手ではなかったですね。ランニングは業務の一環としてやってきましたし、ロードバイクは習志野時代から乗っていました。それでアイアンマンに出ようとしたら、まず実績が必要だと分かり、野尻湖トライアスロンやセントレアのアイアンマン70.3に出ました。
2018年にKONAチャレを知ったときは「俺のための企画だ!」と思いました。「落下傘事故から生還した人間がKONAに出られたらすごいよね」と。結局そのときはレギュラーメンバーに選ばれず、「自分で俺のKONAチャレをやっていこう」と思っていたら、フレンドに選ばれた。
そして、1年目はマレーシアで初アイアンマンを経験し、2年目はいよいよ勝負と思っていたら、台風による災害支援で出場できず。にもかかわらずレギュラーに選んでいただいたのはありがたいですね。2年間KONAチャレで学んだことを生かして賢くトレーニングし、秋のマレーシアでKONAスロットを取りたいと考えています。
山口過酷な訓練や任務を乗り越えてきた木下さんの経験があれば、そんなに難しくないのではという気もしますが。
木下いやいや、KONAへのチャレンジは初めてのことだらけですから、経験で楽に乗り越えられるわけじゃありません。KONAチャレのフィードバックミーティングでも、目から鱗が落ちるような発見や学びがたくさんあります。
山口ご家族は木下さんのKONAチャレをどう受け止めているんでしょうか?
木下24歳で結婚して子どもがふたりいますがもう大きいので、妻も子どももそれぞれ好きなことをやっていますね。妻は結婚まではアマチュアの競技ダンスをやっていたんですが、子どもができてから一度離れ、小学校高学年になったタイミングで復帰し、今ではプロとして活動しています。松本のダンス教室で教えながらプロとして大会に出場しています。
私の出場するレースが年に1〜2回なのを見て「少ないね」と言っています(笑)。私も子どもが小さい頃は育児に時間を割いていましたが、今はそれぞれ情熱を注ぐものがあるおかげで、自由にやらせてもらっています。
山口興味深い話をたくさん聞かせていただき、ありがとうございました。